リライトの抵抗感
昔々、なにかのタイミングで書いた文章がある程度の量がある。
で、それを成果物に昇華させたい。
例えば、中編で、シーンごとに断片的に書いていた文章があって、全体としてまとまってはいないけれど、まとめれば中編に仕上げられる内容のもの。
例えば、全体の7割を書いた2万文字程度の文章で、最後のまとめ部分を書けば1本話ができるけれど、そのためには少し前にもどって、整合性や伏線の張り直しなど、ちょこちょこ改定が出てくる、という文章。
これらの、個々の部品としてはできている、組み合わせたり調整したりで完成品となる。
自分は、そんな文章の、リライトにすごく抵抗感を感じてしまう。
抵抗感を何故かと考えてみた。
自分の心象の考察を少しやってみると、完成品になることは素直にうれしい。
一つの完成品として成り立たせてやれなかった文章が、どうにかこうにか、成果物に成れるのだから、うれしい。
各部品を、この成果物ではなくて、別の成果物に利用したい面もあるから、ここで使うのは……という考えがなくはないけれど、こっちの成果物に使ったが多分しっくりくるし、早い、という場合がほとんど。
なので、別の成果物でという選択肢は取れない。
断片的な文章が形になるのは嬉しいし、その文章・部品を使うのは、この成果物でしかありえないという事もわかっている。
それでも、抵抗感が大きいのは、たぶん、面倒くさい事を知っているからなのだと思う。
つまり、まあ、リライトは面倒くさいのですよ。
せっかく書いた文章は、成果物にならなかったとは言え、せっかく書いた文章だから変えたくない
というよりも、自分の中では一度終わった、完了したタスクだから、掘り出したくない、という面もあるかもしれない。
やったがいいのは分っているけれど。
そりゃ、成してあげたが自分も嬉しい。
その文章も何かの役に立つし、やったがいいのは分っている。
けれど、始まらない。
何も考えずに、ワードを立ち上げて、その文章を開いて。
アレとコレをくっつけて、ここはこんな風に改定・修正して……。
と始めてしまえは、モチベーションも上がってくるかもしれない。
けれど……。
メンドクサイ。
だって、メンドクサイ。
あーあ。
あああああ~。
取り掛かってしまえば早いのだろうけれどね…(- o-)y-~~~
ああ。
新規の話を書いたが、楽しいんだよねぇ~。
という、ブログでした。
で、記事という形でも吐き出してしまうと、「ちょっと、やってみようかな」という気持ちになったりもするので不思議である。
というわけで、たぶん前にも掲載しているけれど、今日の本はコレ。

